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蒼穹のファフナー文章(ときどき絵)サイト
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END OF THE WORLD1
数年ぶりに踏んだ帝都の地は、相変わらず人の往来が激しく、もう夜も遅いというのにまだ通りは建物の灯りで明るく照らされ、
まるで夜だということを忘れてしまうかのようだった。
数週間に及ぶ飛行船の旅では、見えるものといえば漆黒の宇宙と僅かに煌めく星座くらいだったので、
突然明るく照らされる視界が白くぼんやり霞むような感覚がする。
しかし行き交う人々は皆、黒いケープを着込んでは頭からすっぽりとフードを被り、
表情はおろか老若男女の区別すら容易にはつきそうもなかった。

首に巻いた大きめのストールで口元を隠すと、総士は繁華街の裏通りへと歩を進める。
約束は明日だったが、任務に遅れるのは組織の命取りになりかねない、
ましてや帝都から遠く離れた地にいた総士には定刻通りに運行されない事で有名な飛行船しか移動手段はなく、
指令を受けてからすぐチケットを手配して帝都へと向かったのだ。
奇跡的に遅延を免れた便によって一日早く帝都入りした総士は、
数年前まで暮らしていた故郷の懐かしい景色を見て回ろうと思い、宿に直行することをしなかった。

ちらりと左手首の時計に目をやると、もうすぐ23時になろうとする所だった。
先日17歳になり、やっと23時以降の外出も法律上許されるようになった総士だったが、生まれつきの童顔のせいか、
先日までいた地でも警察に呼び止められる事が多かった。
だからストールで顔の半分を隠して足早に路地を歩く、もう季節は初夏に近いというのに。

大通りは見知らぬ近代的な建物が並んですっかり変わってしまったと思ったのに、
一歩裏道に入れば、各家の軒先から橙色をした提灯が縦に長く連なる。
濃紺の夜空に橙色がぼうっと滲んでとても綺麗なのは変わらないままなのかと、
総士はストールの下の口元が自然と綻ぶのを抑えられなかった。

そして目の前に迫った角を右に曲がった時、聞こえてきた声と少し先に見えた光景に総士はふと立ち止まる。
慌てて立て看板の陰に隠れると、そっとその先を見た。

何やら話し合っているらしい大柄の青年と、
それに隠れるように青年よりも20cmは小さいであろうと思われる少年らしき人影が見える。
右手には松葉杖を持つその黒髪の少年の声が再度聞こえた時、総士は目を見開いた。

「一…騎」

瞬時に総士の脳裏には7年前の一騎の姿が浮かび上がる。
毎日のようにこの路地裏で遊んでは、四六時中一緒にいたことは忘れる筈もない。
あの頃よりも伸びた黒い髪は顎よりも長く肩につきそうなくらいで、
やはり、変わらず右手に持った杖に総士は顔を少し歪めた。

と、その時、一騎の前に立っていた青年が離れていく。
「また、よろしくね」と小さく一騎は言って、引きずった足を労るかのように門前の階段へと腰を下ろした。
青年に最後に向けた媚びるような笑顔に、総士は言い知れない違和感を覚える。

こんな時間に、何を?

総士だって15の時から仕事に就いていたから、
離れている間に一騎だって何かしらの職業に就いていたとしても何ら不思議はないわけで、
なのに胸がざわつくような感覚がこみ上げて、総士は路地へ出ると早足で一騎の下へと向かった。

「…一騎」

数年ぶりかに呼びかけると、ゆっくりと下を向いていた顔が上がる。
そして見つめられた両目の赤い色に、やっぱり一騎だと総士は再度確認をして、おもむろに顔を覆うストールを外した。
すると、目の前に手が差し出される。

「?」

総士が意味を図りかねていると一騎は虚ろな目のまま口を開いた。

「いくら?」

「…え?」

「どこのホテルがいい?」

「一騎」

「俺を買うんでしょう?」

そう言って一騎はまたあの媚びたような笑みを作った。
しばし呆然としてしまった総士だったが、慌てて「違う」とだけ口にする。

「違うなら、他をあたって」

一騎はそう言うと、ふい、と横を向いてしまった。
見向きもされなかったことに加えて、一騎の仕事が何だったのかが即座に理解出来てしまった総士は、
暫くそのまま立ち尽くしていたが、意を決すると一騎の前にしゃがみ込んだ。

「僕だ、総士だ…覚えてないか?」

総士が呟くと、一騎は面倒臭そうに顔だけこちらへ向けると「さぁ」と一言だけ言った。
そのまま沈黙が流れると、一騎は地面に置いていた松葉杖を右手に持ち直す。
「そこいられると、仕事の邪魔なんだ」と抑揚のない声で総士に告げると、立ち上がろうとした。

「待ってくれ!」

「…何?」

「話を、しないか?」

総士は立ち上がろうとした一騎の肩を掴むと顔を歪める。

「俺、急いでるんだ」

12時まであと1時間もないから、と一騎が肩に置かれた総士の腕に手をかけた時だった。

「払うから」

力を込めようとした一騎の手が止まり、赤い両目が再び総士を見た。

「お金なら…払うから」

総士は必死に言ったが、一騎は力の緩まった隙に立ち上がると総士に背を向けて歩き出した。

「そ…んな」

総士は俯いたまま顔を上げることが出来なかった。
幼なじみに忘れられていたということが深く心に突き刺さる。
自分だけが大切に閉まっていた思い出が音を立てて崩れさっていくような感覚がした。
握りしめた両手の拳に力を込めた時、前方から小さく声が聞こえた。

「何?」

力無く総士が顔を上げると、
もうとっくに姿など見えなくなっているだろうと思っていた一騎が少し先に立ってこちらを見ている。

「いいよ」

そう言って、一騎は笑った。
先ほどまでの媚びるような笑いではなく、記憶の中の、一騎の笑い方だと総士は思った。

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君と僕とあの夏の日と20 end
その数日後、一騎はバレー部の練習に復帰することとなった。
怪我のせいで約一ヶ月近く休んでいたのだが、普段の調子に戻るのに一週間と時間はかからなかった。
もっとも、一騎は遅れと勘を取り戻すために朝から自主練をかかさなかったし、周りの部員達も協力してくれた。
そんなに必死に練習したのも、監督が一騎のためにレフトのポジションを空けておいてくれたからだった。

「おつかれさまでした」

一騎は深く一礼をすると体育館を後にする。
そして小走りに廊下を進むと、校門で待っているだろう人物のもとへ向かった。
走りながらちらりと見上げた時計は午後5時を少し回ったところで、 もしかしたら結構待たせちゃったかな、とちょっと申し訳ない気持ちになる。

「ごめん、待った?」

後ろから声をかけると、校門の柱の所からひょい、と顔がのぞく。総士だ。
突然吹いてきた風が総士の髪をふわりと巻き上げてオレンジ色にきらきらと輝いた。
なんか、こういうの、似合うよなぁと一騎はぼんやりと総士を見つめていると、総士は怪訝そうな顔をする。

「疲れてるのか?」

「えっ?」

「急にぼんやり立ち止まってるから」

「あ、いや、そうじゃなくて、待たせたかなぁと思って、ごめん帰ろ」

一騎は慌てて言うと、総士の背中をぽんと押した。

「試合は、出られそうなのか?」

駅までの道を歩いていると、総士はおもむろに口を開く。

「うん、監督がポジション空けててくれて、さ」

「そっか」

「あ、土曜、もし空いてたらさ」

「もちろん、そのために空けてあるよ」

見に行くから、と総士は言って微笑んだ。
まじまじと目が合ってしまった一騎は、なんだか恥ずかしくなって下を向いてしまう。
「一騎?」と呼びかける総士の声にまた心配が混ざっているような気がして一騎はぶんぶんと首を振ると、 「約束だからな?」 と言って今度は総士に笑いかけた。 そのまま一騎は続ける。

「この一ヶ月でさ、色々変わったような気がする」

「ん?」

「なんかさ、見えなかったものが見えたり、一人じゃないって思えたり」

「一騎」

「全部、総士のおかげかもしんない」

そう言って一騎は総士を見上げると、ちょっと戸惑ったような顔がそこにはあって、 なんだか少し可笑しいような気分になる。
すると、総士が口を開いた。

「高校に入ってから、一騎と話す時間が少なくなってどうしてるのかなってずっと思ってたんだ」

「けど、変わってなくて良かった」

「え?」

「色々あって、一騎が大変だったのはわかってるつもりなんだけど、本当は僕の方が一騎の存在に 助けられていたのかもしれない」

そこまで言うと、総士はこちらを向いてまた少しだけ微笑む。
一騎はその意味がわからなくて、「どうして?」と小さく呟いた。
総士はそんな一騎を見て「ごめん、言葉が足りなかった」と言うとまた続ける。

「学校からの帰り道がこんなに楽しいなんて今まで思えなかった、たぶん、一騎がいたからだと思う」

「…なんか、そんな風に言われると照れるけど、でも、うれしいな」

「本心だぞ?」

「わかってるよ」

一騎は思わず緩んでしまう顔を抑えきれずに口元を緩めると、そっと、総士の腕に自分の腕を絡める。
そして総士に向かって言った。

「これからも、一緒に帰っていいかな?」

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君と僕とあの夏の日と19

病院を後にすると最寄の駅から電車に乗り、二人はいつもの駅で改札を出た。
空を見上げれば徐々に夕暮れから夜に変わる頃のようで、一騎は3週間前のことを思い出す。
あの時はやたら不気味に思えて、目の前の総士の背中を追いかけることしか考えなかった。
そして視線を繋がれた手に落とす。
今日は、手繋いでるから平気なのかな、なんて柄にもないことを思っていると総士の声がした。

「着いたぞ」

慌てて顔を上げると、そこには遊具の撤去作業が始まったらしい公園があった。
あの時は青いビニールシートばかりだったのに、今日はそれがほとんど剥がされている。
そして中にあった遊具はそのほとんどが解体されかけていた。

「やっぱり、もう結構なくなっちゃってるんだね」

一騎がぽつりと呟くと、総士はおもむろに歩き出す。
そして侵入禁止のロープを軽く乗り越えると、繋いだ手を引っ張った。
一騎も手を引かれるままに乗り越えて歩いて行くと、立ち止まった先には、なぜか3週間前と
同じで手が付けられてないままのブランコがあった。
総士はその一つの前まで歩いて行くと、そこに一騎を座らせる。
「何で俺だけ?」と尋ねた一騎に総士はふわりと笑みを浮かべた。

「一騎の方が高く漕げるのが、本当はずっと悔しかったんだ」

そう言って座る一騎の間に足を掛けると、ブランコに立った総士はゆっくりと漕ぎ始める。
ギィ、ギィ、と錆びた金属の擦れる音が響いて、風が頬に触れる。
次第に心地よい揺れを起こすブランコに、一騎は少しだけ笑みを溢した。

「でもさ、総士」

何だ?といつもよりずっと高い位置から聞こえる返事に、一騎は総士を見上げる。

「子供の頃の俺より、今の総士の方が高く漕げるに決まってんじゃん」

悪戯っぽく一騎が言うと、案の定総士からの返事はなくて。
意外と、一騎から見れば意外でもないが、総士はこういう所に持ち前の負けず嫌いを発揮
したりする。
それがまさかブランコだなんてちょっと驚きだったけれど、なんだか必死になって漕いで
る総士を見ては「かわいいな」なんて思ってしまう。絶対否定されるから言わないけれど。

「でもさ、漕いでるだけじゃわかんなかった風が、座ってるとこんなに解るもんなんだね」

ありがと、と言って総士の足にこつんと頭をぶつけると、「どういたしまして」と頭上から
声がする。
それはそうともうかなり高い位置までブランコは大きく揺れていて、一騎は「高すぎない?」
とおそるおそる総士に聞いた。

「僕だってたまには、一騎に勝ちたいんだ。だからさ、もうちょっとだけ」

見上げていた一騎に目を合わせて今度は総士が悪戯っ子のように笑う。
一騎は最初こそびっくりしたものの、すぐに逸らされて上を向いてしまった総士に向かって

「俺の方がなんだか、負けっぱなしな気がするんだけど」

と聞こえないように呟いた。

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君と僕とあの夏の日と18
それから数日後、一騎は抜糸のために病院へ行った。
この数週間、傷の療養としてはあまりに色々な事が起こり過ぎて、一騎は本当に今日で通院が終わりに
なるのだろうかと内心疑う気持ちが少々あったのだが、包帯を外してから医師は「良好そうですね」と
言ってそのまま抜糸の準備をするよう看護師に伝えた。
準備が整うまでの間、医師は自分の両手に巻かれた包帯に目を留めているのを一騎は気付いて、

「片目に慣れなくて転んだんです」

と嘘を吐いて笑う。
「大変だったね、大丈夫?」となんだか嘘を吐いたのに見透かされてるんじゃないかと思えてしまうよ
うな返事が返ってきて、一騎は数秒遅れて「はい」と小さく頷いた。

その後、速やかに抜糸は済んだが、今度はずっと使っていなかった目を急に使うと疲れが溜まるからと、
すぐに運動など目を酷使するような事を避けるように医師は一騎に言った。
一騎は頷いて席を立つと、「ありがとうございました」と言って診察室を後にする。
なんだか、久しぶりすぎる両目での視界の広さと明るさに慣れなくて、一騎はしばらく立ち止まったま
ま何回も瞬きを繰り返した。

「終わったのか?」

後ろから声がして振り向くと、そこには総士の姿があって、今日は生徒会で遅くなると聞いていたから、
一騎はびっくりしたまま総士をじっと見つめてしまう。
そんな一騎の様子を見て総士は笑うと、「僚先輩がね、早く帰っていいって言うから」と言った。

「来て、くれたんだ」

一騎が思わず呟くと、総士は「いけなかったか?」と苦笑する。

「いや、うれしい」

そう言って一騎はにこりと微笑んだ。
笑っても片目が引き攣るような感覚が消えたことに、まだ何だか慣れなくてむず痒いような気持ちになる。
総士の側へ歩いていこうとした瞬間、窓からの日差しが目に入って一騎は思わず顔を顰めた。

「大丈夫か?」

と心配そうに声を掛けてくる総士に、「久しぶりだから眩しくて」と一騎は片目を押さえたまま力なく
笑う。
すると、一騎の目の前に総士の手が差し出された。

「危ないから、さ」

見上げた総士の顔はなんだかちょっと照れくさそうだったけれど、でも嬉しい気持ちの方が大きくて、
一騎は何も言わずにその手に自分の手を重ねた。


会計を済ませて外に出ると、太陽はかなり傾きかけていてもうすぐ夕暮れなんだな、と一騎は片目の瞼を
不自然に閉じながらぼんやり空を見る。
そのまま視線を落とせば繋がれた手があって、もう夏なのに不思議とそこから感じる総士の体温が不快
だとは思えない自分がいた。
いつだって総士の手は、なんだか安心する温度だよなぁと一騎は少し上にある総士の横顔を見つめて思う。

「どうした?」

あんまりにも見ていたからか視線に気付いた総士が声を掛ける。
「ううん、何でもない」と一騎は言って笑うと、つられて総士も笑った。

「何で笑ってんの」

「お前が笑うからだろ」

言ったと同時にぽん、と頭にのせられた手に一騎はまた嬉しくなって、「そうだね」と返す。
そのまま駅に向かう途中の道で、一騎は「あ!」と急に声を上げた。

「あの公園って、もう無くなったのかな?」

怪我をしたその日にたまたま行ったあの公園の取り壊し工事は、確かそろそろ始まっているんじゃないか
と一騎は思う。
別にすごく思い入れがある訳ではないのだけれど、なんとなくこのまま見ずに全部無くなってしまうのが
急に寂しくなって、一騎は「行ってみようよ」と総士に言った。
「そうだな」と頷いた総士が何を思っているかなんて解る訳は無いのだけれど、もしかしたら同じ気持ち
だったりするのかな、と一騎は総士の顔をちらりと見上げる。
すると総士は一騎を見て、「転ぶなよ」とだけ言って繋いだ手に少しだけ力を込めた。
一騎は思わず口元を綻ばせると、「大丈夫だって」と呟いた。

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君と僕とあの夏の日と17
眠る一騎の強く握りしめられた両手の拳を見て、総士は顔を顰める。
青白く変色する程に力が込められたそれは、最近では皮膚に爪が食い込むのか血まで滲むようになった。
総士は一騎を起こさないように静かにベッドに近寄ると、そっと片手を取る。
やんわりと両手で包みながらいつものように少しずつ握りしめられた指を解いていこうとした時、
つぅ、と一筋赤い滴りが流れ落ちて、総士は目を見開いた。

「一騎」

そのまま声を掛けてみるが、いつもなら少しの物音ですら起きる一騎はぴくりとも動かない。

「一騎っ」

強く声を掛けながら肩を揺さぶれば、暫くして一騎はゆっくりと目を開けた。
総士は少しほっとすると「大丈夫か?」とゆっくり、確認するように尋ねる。

「…え?」

初めは状況がわからず何度も瞬きをしていた一騎は、自分の右手に重ねられた総士の手を見て
はっとしたような表情を浮かべては視線を彷徨わせた。

「とりあえず手当しよう」

総士は少しだけ重ねた手に力を込めると、優しく一騎に言った。
「救急箱取って来るから」と立ち上がって部屋を後にする。
ドアの所でちらりと一騎の方を振り返ったが、彼はずっと下を向いたままでどんな表情をしているのかは
わからなかったが、血の滲んだ両手を開いて見つめたままのようだった。
リビングに置きっぱなしになっていた救急箱を取ると総士はそのまま一騎の寝ている部屋に向かおうと
した足を止める。
まだ自分は彼を助けきれてはいないのだと、総士は唇を強く噛みしめた。
どうしたらいいのだろうと思うけれど、今は感情的な言葉をなるべく言わないように、混乱しているのは
一騎の方なのだから、と何度も自分に言い聞かせる。
ひとつ大きく深呼吸をして、総士はゆっくりとドアを開けた。

「手、見せて」

総士はベッドの横に座ると、あえて一騎の手を取らずに声だけ掛ける。
出て行った時のままだったのか、ずっと自分の手を見つめていたらしい一騎はその声にびくりと肩を震わ
せると、「大したこと…ないから」と消え入りそうな声で言った。

「このままじゃ、痛いだろ」

「ほんとに、大丈夫」

「一騎」

頑なに断る一騎に総士は少し強く言葉を遮るように言うと、一騎はまたびくりと震えて初めて総士の顔を
見る。
その余りにも怯えた表情に今度は総士がはっとして、「ごめん」と呟いて静かに手を取った。
「染みると思うけど、ちょっと我慢して」と断ってから総士は慣れた手つきで消毒液を吹き掛けていく。
開かれた手のひらには爪の形に抉れた傷が左右に4つずつあって、総士は自分の方が痛いような気持ちに
なってしまう。
大きなガーゼを切って傷口を覆うように当てると、固定するために包帯を巻いた。
目の手当でこういう扱いに慣れたからか、左右に包帯を巻くのも大して時間はかからなかったのだが、
その間、二人はずっと無言だった。
包帯留めで固定をしおえると、総士は一騎の手にまたゆるりと自分の手を重ねる。
そうして静かに口を開いた。

「夢、見るんだろ?」

「何の」とはあえて言わなかったが、言う必要も無かったし、言ったら更に一騎を追い詰めることにな
らないかと思う。
一騎も総士の意味する所は理解したようだったが、だからこそなのか、まだ無言のままだった。

「本当は気付いてたんだ」

「えっ?」

「その手も、あれからずっとお前が魘されてることも」

おそるおそる総士が告げると、一騎は総士の方を一瞬見てはすぐに顔を下に向けてしまう。
途端に握りしめそうになった拳を止めるように総士が手を重ねると、引き攣ったように息を飲む音が聞
こえた。

「すぐに忘れられるような、そんな簡単なものじゃないことはわかってるつもりなんだ、だけど、だか
ら、もしも苦しい時があったら、僕に話してくれないか?」

「…そのうち、忘れるから。だからこれ以上総士に」

「もう一騎一人に、苦しい思いをさせたくないんだ」

一騎の言葉を最後まで聞かずにあえて総士は遮ると、またゆるゆると顔を上げた一騎の目を見つめる。
不安なのか負い目を感じているのかわからないが、不自然に揺れる瞳が痛々しいと総士は思う。
「総士」と聞こえるか聞こえないかの小さな声で自分の名前を呟いた一騎に、総士は今この場に不釣り
合いだろうかと思いつつも微笑んだ。

「もう、一人だけで苦しまないでほしいんだ…僕も、いるから」

そう言って総士は一騎の手をしっかりと握りしめた。

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