蒼穹のファフナー文章(ときどき絵)サイト
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2024.11.22 Friday
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君と僕とあの夏の日と5
2011.11.20 Sunday
その日は朝からずっと土砂降りの雨だった。
二日振りに学校に行った一騎だったが、まだ完全に下がりきらない微熱のせいで、
朝教室に入って5限目が終わるまでの記憶がやたらと曖昧だったのが気に入らない。
大丈夫?と次々に声を掛けてくるクラスメイト達の顔すら酷く朧気にしか思い出せなくて、
片目だけの視界には少し情報量が多すぎたのだと無理矢理自分を納得させる。
ずっと開いたままの窓からはざあざあと大きな雨音ばかりが聞こえ、
そのお陰か、今日も相変わらず聞きたくないと思うバレー部員の練習中の声はかき消される。
でも夏の雨特有の高い湿度がじっとりと肌を湿らせて、
これなら生温い水の中に居た方がまだマシだと思う位に不快感ばかり募らせた。
『いつものとこで、待ってる』
手持ちぶさたで持っていた携帯を開いて短く文を打つと、そのまま送信ボタンを押した。
一瞬で切り替わった「送信完了」の画面を確認して、パチ、と携帯を閉じる。
行くか、と小さく呟くと一騎はバッグを肩に掛けて立ち上がった。
未だ、空はどんよりと暗く低い雲が立ち込めたまま。
教室を出れば廊下は湿気で滑りやすくなっているのか、一歩踏み出すごとに、
きゅ、と甲高い音がやけに耳について一騎は顔をしかめた。
足早に土砂降りの中をひたすら歩くと、やがて駅前の広場が見えてくる。
沿線の中では結構開発が進んでいるこの駅前は、午後ともなれば行き交う人が溢れていた。
人混みといった程ではないが、この人の往来が生理的に苦手だ、と一騎は思う。
それぞれ目的があってそこに向かう人々の中で、自分だけどこにも行き先がなくなってしまったかのように、
漠然とした不安感に襲われるからだ。
思わず竦みそうになる足を必死に動かして駅前のビルの階段をのぼる。
そこは、駅前では唯一学生にも手を出せる金額で長時間居座ることの出来る場所で、
店内に入れば雨ということもあってか放課後を持て余す学生達で溢れ返っていた。
一騎は通路を真っ直ぐ奥に進んで大きな窓に面した席に座ると、隣も確保するためにどさりとバッグを下ろす。
その中からヘッドフォンを取り出して耳を塞ぐと、再生ボタンをそっと押した。
途端に流れ出す大音量に、まるで外の世界と遮断されたかのような感覚に陥る。
目の前の世界から音が消えるこの瞬間を、一騎は結構好きだと思う。
隔離することで酷くぼやけていた自我が確立するような気がするからだ。
足下には音を無くして動く色とりどりの傘の群れが見える。
最近酷くなった乱視のせいで、それはまるで万華鏡で覗いた世界みたいだった。
思わず目眩がして、足でそれを踏みつける真似をしては少し安心したような気分になる。
そんなことをしているうちに、テーブルの上に置いた携帯のバイブがメールの受信を告げた。
『着いたけど、どこ?』
自分にも増して短文で送られてきたメールに少し笑みをこぼすと、『奥にいる』とすぐ返す。
そのまま開いて送信画面を見つめていると、液晶の黒い部分に人影が映った。
「待ったよね?ごめん」
慌てて振り返ると総士が立っていて、なんだか申し訳なさそうな顔が印象的で。
隣の席のバッグをテーブルの上に置くと、総士はそこに座った。
そこまでしてやっと外したヘッドフォンから漏れ出す音に気付いてポケットに手を突っ込むと、停止ボタンを押した。
「もっと早く終わるはずだったんだけどさ」
と言って総士は苦笑した。
本当なら、一騎が学校を出た時間とそれ程変わらない時間に生徒会も終わったらしい。
けれど、教室に戻って帰りの準備を整えて廊下に出た途端、新聞部の部員につかまったのだと。
一騎達の学校の新聞部は、記事の視点が面白いことで人気の全校生が読んでいるのではないかとすら思われる
校内新聞を月刊で発行している。
文化部にしては珍しくメジャーな部活に分類される大所帯の部活である。
その新聞では毎回、全校生の中で目立った活動をしている生徒にスポットを当てて特集記事を書いており、
次号に取り上げられるのが総士、ということらしい。
確かに総士は一年生でありながら生徒会に所属し、中でも生徒会長からの信頼が厚く、
なにかと全校生徒の前に生徒会長代理として立つことも多い。
でも一年で特集されるのなんて総士が初めてなんじゃないかな、と一騎は思う。
「すごいな、総士」
おつかれさま、と隣を見れば、ありがとうと総士は微笑むと、お前のことも取材したがってたぞ、と言った。
「俺…?」
訳が分からずに一騎が問い返すと、ちょっとは自覚しろよ、と総士は苦笑して、
一騎が入学当時からどの部活に入るか注目されていたことや、バレー部に入部してからのめざましい成績のことを語り始めた。
「でも今は、全然だし」
一騎はそう言ってふい、と外を見ると、3週間なんてあっという間だよ、と隣で総士が笑った。
でも、と言いかけたところでふわりと頭を撫でられる。
思わず振り向くと総士は優しく微笑んで言った。
「そうやって焦るのが、一騎の良くない所だ」
焦ったって早く治るわけじゃないんだし、もしかしたら遅くなるかも、と総士は悪戯っ子のような顔をして続ける。
「考えたってどうにもならないことはさ、なるべく考えない方がいいよ」
わかった?と顔を覗き込まれたので、小さく、うん、と一騎が答えた。
二日振りに学校に行った一騎だったが、まだ完全に下がりきらない微熱のせいで、
朝教室に入って5限目が終わるまでの記憶がやたらと曖昧だったのが気に入らない。
大丈夫?と次々に声を掛けてくるクラスメイト達の顔すら酷く朧気にしか思い出せなくて、
片目だけの視界には少し情報量が多すぎたのだと無理矢理自分を納得させる。
ずっと開いたままの窓からはざあざあと大きな雨音ばかりが聞こえ、
そのお陰か、今日も相変わらず聞きたくないと思うバレー部員の練習中の声はかき消される。
でも夏の雨特有の高い湿度がじっとりと肌を湿らせて、
これなら生温い水の中に居た方がまだマシだと思う位に不快感ばかり募らせた。
『いつものとこで、待ってる』
手持ちぶさたで持っていた携帯を開いて短く文を打つと、そのまま送信ボタンを押した。
一瞬で切り替わった「送信完了」の画面を確認して、パチ、と携帯を閉じる。
行くか、と小さく呟くと一騎はバッグを肩に掛けて立ち上がった。
未だ、空はどんよりと暗く低い雲が立ち込めたまま。
教室を出れば廊下は湿気で滑りやすくなっているのか、一歩踏み出すごとに、
きゅ、と甲高い音がやけに耳について一騎は顔をしかめた。
足早に土砂降りの中をひたすら歩くと、やがて駅前の広場が見えてくる。
沿線の中では結構開発が進んでいるこの駅前は、午後ともなれば行き交う人が溢れていた。
人混みといった程ではないが、この人の往来が生理的に苦手だ、と一騎は思う。
それぞれ目的があってそこに向かう人々の中で、自分だけどこにも行き先がなくなってしまったかのように、
漠然とした不安感に襲われるからだ。
思わず竦みそうになる足を必死に動かして駅前のビルの階段をのぼる。
そこは、駅前では唯一学生にも手を出せる金額で長時間居座ることの出来る場所で、
店内に入れば雨ということもあってか放課後を持て余す学生達で溢れ返っていた。
一騎は通路を真っ直ぐ奥に進んで大きな窓に面した席に座ると、隣も確保するためにどさりとバッグを下ろす。
その中からヘッドフォンを取り出して耳を塞ぐと、再生ボタンをそっと押した。
途端に流れ出す大音量に、まるで外の世界と遮断されたかのような感覚に陥る。
目の前の世界から音が消えるこの瞬間を、一騎は結構好きだと思う。
隔離することで酷くぼやけていた自我が確立するような気がするからだ。
足下には音を無くして動く色とりどりの傘の群れが見える。
最近酷くなった乱視のせいで、それはまるで万華鏡で覗いた世界みたいだった。
思わず目眩がして、足でそれを踏みつける真似をしては少し安心したような気分になる。
そんなことをしているうちに、テーブルの上に置いた携帯のバイブがメールの受信を告げた。
『着いたけど、どこ?』
自分にも増して短文で送られてきたメールに少し笑みをこぼすと、『奥にいる』とすぐ返す。
そのまま開いて送信画面を見つめていると、液晶の黒い部分に人影が映った。
「待ったよね?ごめん」
慌てて振り返ると総士が立っていて、なんだか申し訳なさそうな顔が印象的で。
隣の席のバッグをテーブルの上に置くと、総士はそこに座った。
そこまでしてやっと外したヘッドフォンから漏れ出す音に気付いてポケットに手を突っ込むと、停止ボタンを押した。
「もっと早く終わるはずだったんだけどさ」
と言って総士は苦笑した。
本当なら、一騎が学校を出た時間とそれ程変わらない時間に生徒会も終わったらしい。
けれど、教室に戻って帰りの準備を整えて廊下に出た途端、新聞部の部員につかまったのだと。
一騎達の学校の新聞部は、記事の視点が面白いことで人気の全校生が読んでいるのではないかとすら思われる
校内新聞を月刊で発行している。
文化部にしては珍しくメジャーな部活に分類される大所帯の部活である。
その新聞では毎回、全校生の中で目立った活動をしている生徒にスポットを当てて特集記事を書いており、
次号に取り上げられるのが総士、ということらしい。
確かに総士は一年生でありながら生徒会に所属し、中でも生徒会長からの信頼が厚く、
なにかと全校生徒の前に生徒会長代理として立つことも多い。
でも一年で特集されるのなんて総士が初めてなんじゃないかな、と一騎は思う。
「すごいな、総士」
おつかれさま、と隣を見れば、ありがとうと総士は微笑むと、お前のことも取材したがってたぞ、と言った。
「俺…?」
訳が分からずに一騎が問い返すと、ちょっとは自覚しろよ、と総士は苦笑して、
一騎が入学当時からどの部活に入るか注目されていたことや、バレー部に入部してからのめざましい成績のことを語り始めた。
「でも今は、全然だし」
一騎はそう言ってふい、と外を見ると、3週間なんてあっという間だよ、と隣で総士が笑った。
でも、と言いかけたところでふわりと頭を撫でられる。
思わず振り向くと総士は優しく微笑んで言った。
「そうやって焦るのが、一騎の良くない所だ」
焦ったって早く治るわけじゃないんだし、もしかしたら遅くなるかも、と総士は悪戯っ子のような顔をして続ける。
「考えたってどうにもならないことはさ、なるべく考えない方がいいよ」
わかった?と顔を覗き込まれたので、小さく、うん、と一騎が答えた。
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君と僕とあの夏の日と4
2011.11.20 Sunday
翌日、一騎は学校を休んでいた。
右目の傷が案外深かったからか、朝起きようとした時に酷い目眩がして、熱を測ったら38度もあり、
父親に無理矢理ベッドへ押し込まれてしまった。
それから果たして何時間経ったのか。
片目なのもあって時計を見ることすら面倒でぼーっと寝たり起きたりを繰り返していたのだが、
さすがに結構日が傾いてきたのかな、とぼんやり見つめた窓の先の景色に思う。
初夏の到来を告げる入道雲はもくもくと高さを競い合って、見ているだけで外の暑さが伝わってきそうだ。
その白い雲に反射している日差しの色で、なんだか午後っぽいなと判断してみたりする。
学校に行っていれば瞬く間に過ぎ去る時間が、今日に限って1秒が5秒くらいに延びてしまったかのような感覚。
一騎は発熱のためクーラーの設定温度が高めな室内で、別に寒くもないのに
中途半端に掛けていたタオルケットをぐいと肩まですっぽり被る。
誰も居ない日中の家はなんだかいつもよりずっと暗く広く感じられて、
唯一動き続けるクーラーの音がやけに規則的に大きく響いて、耳鳴りのようでうるさくて仕方なかった。
「痛ったぁ・・・」
朝からずっと寝ているだけで特に他にすることなんてなく、
自然と傷を気にしてしまってそれがかえって痛さを増しているような感覚がする。
ドクン、ドクンという鼓動に合わせるかのように右目に痛みが走って嫌気が差してくる。
なんだか格好悪い気がして鎮痛剤を貰うのを止めてしまったけれど、
やっぱり貰っておけばよかったななんて今更ながらに少し後悔してしまう。
机の上に積み上がっているやたら貰った化膿止めのチューブの山を見て、はぁ、と溜息を吐くと、
そっと今朝真新しい包帯で巻かれたばっかりの右目に触れた。
昨日と変わらない感触に少し安堵して、でもこみ上げてくる不安の気持ちの方がずっと大きい。
「治るって、言ってたけど」
正直、怖かった。
茫然自失のような状態ではあったけれど、尋常じゃない出血量だったとそれだけは記憶している。
複雑な縫合処置だったらしく麻酔注射を何本も打ったし、時間もそれなりにかかっていた気がする。
通常より治るまでに時間がかかるという医者が告げた事実が、なんだか心許なくて。
打ち込んでいた部活に出られない日々も不安な気持ちに拍車を掛けた。
家に1人だけ、という心細さがその気持ちを助長させているのかもしれないけれど。
規則的で無機質な機械音しか聞こえない中では、恐怖心は増大していくばかりだ。
だめだなぁ、と自分を叱責しつつも、拭えないマイナスの感情の対処に一騎は心底困っていた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に宅急便かな?と一瞬無視を決めこもうかと思ったけれど、なんかそれ腐りすぎだな、
と一騎はのろのろ起き上がって玄関に向かった。
「そーし?」
ドアを開けると、そこには学校帰りの総士が息を切らして立っていて、
「なんか、気になって来ちゃった」
と言って彼は笑った。
「生徒会は大丈夫なのか?」
確かこの時期は夏休みに向けて校内の整理を毎日している筈だ、だから昨日もあんなに書類を持ち歩いてた訳で、
来てくれるのは嬉しいけど仕事大丈夫なのかな、と一騎は心配になった。
「今日は、何もなかったんだ」
総士はふわりと微笑んで、ベッドに横たわる一騎の髪に手を伸ばす。
そっと手を差し込むと、適量の髪を指の間に絡ませてゆっくりと梳いては離すのを繰り返す。
かすかに触れる指がくすぐったいけれど、幾度も軽く髪を引っ張られるこの感じがたまらなく安心して大好きだ、と思う。
髪をすべる指の感触が気持ち良くて、さっきまで頭の中を埋め尽くしていたマイナスの思考が
あっという間に消えて無くなってしまうような気がする。
何笑ってんだ?と言われて、知らず知らず自分が笑顔になっていたことに初めて気付いた。
「なんか、落ち着いたかも」
ぽつりと呟けば、どういたしまして、と総士は笑った。
でも髪を梳く手は止めてほしくなくて思わず総士を見上げれば、心配しなくていいよ、と彼は言って
髪をわしゃわしゃとかき混ぜられてしまった。
こんな風に相手の気持ちがわかる総士はなんだか宇宙人みたいに思えるけれど、
そんなすごい人間が幼なじみだなんて自分にとても嬉しくなったりする。
ふと見上げて目が合えば、柔らかく微笑み返してくれる、
そんな所がもうとてつもなくすごいんだ。
「元気になったか?」
総士が尋ねてきたので、うん、と言って笑った。
よく出来ました、なんて言いながら顔を覗き込んだ彼は、本当にお兄ちゃんみたいで、
でもその守られているような感覚は決して嫌じゃない。
「明日は、行くから」
「無理すんなって」
「行く」
「熱下がったら、な?」
「別に、あってもなくても変わんない」
「明日も来てやるから」
「え?」
びっくりして総士の方を見れば、やけにニコニコと笑ってる顔があって、
また気付かれてたかなぁ、とちょっとバツが悪くなる。
でも言える訳ないじゃないか、高校生にもなって1人が怖いだなんて、絶対。だから言わない。
口ごもってしまった一騎に、大人しく寝てろよ?と総士は言った。
「わかった・・・ってば」
呟けば、なぜ知っていたのか総士は「夜までいるから」と言ってぱちぱちとおでこを叩いてきた。
確かに今日は残業みたいで父親の帰りは遅いけど、そういう所が宇宙人ぽいんだ、と。
そういえば、いつからかあのクーラーの音が聞こえなくなったなと一騎は思った。
右目の傷が案外深かったからか、朝起きようとした時に酷い目眩がして、熱を測ったら38度もあり、
父親に無理矢理ベッドへ押し込まれてしまった。
それから果たして何時間経ったのか。
片目なのもあって時計を見ることすら面倒でぼーっと寝たり起きたりを繰り返していたのだが、
さすがに結構日が傾いてきたのかな、とぼんやり見つめた窓の先の景色に思う。
初夏の到来を告げる入道雲はもくもくと高さを競い合って、見ているだけで外の暑さが伝わってきそうだ。
その白い雲に反射している日差しの色で、なんだか午後っぽいなと判断してみたりする。
学校に行っていれば瞬く間に過ぎ去る時間が、今日に限って1秒が5秒くらいに延びてしまったかのような感覚。
一騎は発熱のためクーラーの設定温度が高めな室内で、別に寒くもないのに
中途半端に掛けていたタオルケットをぐいと肩まですっぽり被る。
誰も居ない日中の家はなんだかいつもよりずっと暗く広く感じられて、
唯一動き続けるクーラーの音がやけに規則的に大きく響いて、耳鳴りのようでうるさくて仕方なかった。
「痛ったぁ・・・」
朝からずっと寝ているだけで特に他にすることなんてなく、
自然と傷を気にしてしまってそれがかえって痛さを増しているような感覚がする。
ドクン、ドクンという鼓動に合わせるかのように右目に痛みが走って嫌気が差してくる。
なんだか格好悪い気がして鎮痛剤を貰うのを止めてしまったけれど、
やっぱり貰っておけばよかったななんて今更ながらに少し後悔してしまう。
机の上に積み上がっているやたら貰った化膿止めのチューブの山を見て、はぁ、と溜息を吐くと、
そっと今朝真新しい包帯で巻かれたばっかりの右目に触れた。
昨日と変わらない感触に少し安堵して、でもこみ上げてくる不安の気持ちの方がずっと大きい。
「治るって、言ってたけど」
正直、怖かった。
茫然自失のような状態ではあったけれど、尋常じゃない出血量だったとそれだけは記憶している。
複雑な縫合処置だったらしく麻酔注射を何本も打ったし、時間もそれなりにかかっていた気がする。
通常より治るまでに時間がかかるという医者が告げた事実が、なんだか心許なくて。
打ち込んでいた部活に出られない日々も不安な気持ちに拍車を掛けた。
家に1人だけ、という心細さがその気持ちを助長させているのかもしれないけれど。
規則的で無機質な機械音しか聞こえない中では、恐怖心は増大していくばかりだ。
だめだなぁ、と自分を叱責しつつも、拭えないマイナスの感情の対処に一騎は心底困っていた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に宅急便かな?と一瞬無視を決めこもうかと思ったけれど、なんかそれ腐りすぎだな、
と一騎はのろのろ起き上がって玄関に向かった。
「そーし?」
ドアを開けると、そこには学校帰りの総士が息を切らして立っていて、
「なんか、気になって来ちゃった」
と言って彼は笑った。
「生徒会は大丈夫なのか?」
確かこの時期は夏休みに向けて校内の整理を毎日している筈だ、だから昨日もあんなに書類を持ち歩いてた訳で、
来てくれるのは嬉しいけど仕事大丈夫なのかな、と一騎は心配になった。
「今日は、何もなかったんだ」
総士はふわりと微笑んで、ベッドに横たわる一騎の髪に手を伸ばす。
そっと手を差し込むと、適量の髪を指の間に絡ませてゆっくりと梳いては離すのを繰り返す。
かすかに触れる指がくすぐったいけれど、幾度も軽く髪を引っ張られるこの感じがたまらなく安心して大好きだ、と思う。
髪をすべる指の感触が気持ち良くて、さっきまで頭の中を埋め尽くしていたマイナスの思考が
あっという間に消えて無くなってしまうような気がする。
何笑ってんだ?と言われて、知らず知らず自分が笑顔になっていたことに初めて気付いた。
「なんか、落ち着いたかも」
ぽつりと呟けば、どういたしまして、と総士は笑った。
でも髪を梳く手は止めてほしくなくて思わず総士を見上げれば、心配しなくていいよ、と彼は言って
髪をわしゃわしゃとかき混ぜられてしまった。
こんな風に相手の気持ちがわかる総士はなんだか宇宙人みたいに思えるけれど、
そんなすごい人間が幼なじみだなんて自分にとても嬉しくなったりする。
ふと見上げて目が合えば、柔らかく微笑み返してくれる、
そんな所がもうとてつもなくすごいんだ。
「元気になったか?」
総士が尋ねてきたので、うん、と言って笑った。
よく出来ました、なんて言いながら顔を覗き込んだ彼は、本当にお兄ちゃんみたいで、
でもその守られているような感覚は決して嫌じゃない。
「明日は、行くから」
「無理すんなって」
「行く」
「熱下がったら、な?」
「別に、あってもなくても変わんない」
「明日も来てやるから」
「え?」
びっくりして総士の方を見れば、やけにニコニコと笑ってる顔があって、
また気付かれてたかなぁ、とちょっとバツが悪くなる。
でも言える訳ないじゃないか、高校生にもなって1人が怖いだなんて、絶対。だから言わない。
口ごもってしまった一騎に、大人しく寝てろよ?と総士は言った。
「わかった・・・ってば」
呟けば、なぜ知っていたのか総士は「夜までいるから」と言ってぱちぱちとおでこを叩いてきた。
確かに今日は残業みたいで父親の帰りは遅いけど、そういう所が宇宙人ぽいんだ、と。
そういえば、いつからかあのクーラーの音が聞こえなくなったなと一騎は思った。
君と僕とあの夏の日と3
2011.11.20 Sunday
忘れ去られたように不定期に点滅する街灯が並ぶ細い小道を歩いていく。
空はいよいよ本格的に青から黒へとグラデーションの様相を示していて、
時折吹く遠くからの海風が火照った肌に触れてひんやりとする。
シャッターの殆ど閉じている店、人通りなど勿論なく、ただ古びた看板が並んでいる。
車窓から何となく眺めていた無人駅が、実際に降り立つと
こんなにも寂しい町並みだったなんて想像もつかなかったとふと思う。
公園まではあと少しの筈だ。
いつも通る道と逆の方向から行くというのは、見た事のない景色が次々に現れて
普段なら好奇心溢れんばかりになるというのに、なぜか今日は違う。
総士が繋いでくれる手がなかったら、どこか知らない異次元の世界にでも連れていかれそうな気配が、
曲がり角や、電柱と塀の隙間にいっぱい潜んでいるような気がしてなんだかとても怖かった。
「もう少しだから」
気遣うような総士の声がして、急に現実世界に引き戻されたかのような感覚がする。
うん、と小さく返事をする代わりに、繋がれた手に少しだけ力を込めた。
日が完全に落ちて急に辺りは暗さが目立つようになり、
上着を脱いでいた総士の白いYシャツだけが白く浮かび上がる。
それをしっかり見つめると、その背が遠ざかってしまわないように一騎はひたすら総士を追いかけた。
「あ」
少し前を歩いていた総士が急に立ち止まる。
その凝視する先に一騎も視線を移すと、そこには青いビニールシートを被せられたいくつもの遊具がそこかしこにある。
昔よく遊んだジャングルジムやすべり台がすっぽりとシートで覆われていて、
切れ掛けの街灯の光と相まってなんだか気味の悪い青い怪物のように見えた。
「なくなるんだ、この公園」
総士がぽつりと呟いた。
入り口に立てかけられた工事用の看板には取り壊し工事の日程が記されていて、
その後の用途は5階建てのマンションになるとの事だった。
海に近いこの私鉄沿線の土地は、最近になって都心からのベッドタウン拡大に伴う宅地化が進み、
土地の所有者が古くからの家を壊して集合住宅にする動きが高まっている。
確かにこの周辺では小中学校も合併による閉鎖が相次ぎ、義務教育年齢以下の子供を持つ家庭は極端に少なくなっていた。
その煽りを受けての公園の取り壊しなのだろう。
仕方ないといえば仕方ないのだが、自分達に楽しい思い出として刻まれた場所が無くなるというのは、
なんだか心にぽっかりと穴が開いてしまうような、そんな寂しい気がした。
「ブランコ、行こう」
一騎は唯一シートのかけられていなかった一番奥のブランコに総士を促した。
青いシートに包まれた巨大な物体の間を抜けて辿り着けば、そこには昔と変わらず小さなブランコが設置されていた。
所々ペンキが剥げて中の金属が茶色い色をむき出しにしている。
どうやら、幼少時代に一度塗り直しされてからずっとそのままだったらしい。
一騎と総士は隣同士に並ぶブランコに腰掛けた。
「なんか、さみしいね」
一騎は下を向いたままぽつりと呟く。
少し勢いをつけて背伸びをした所から足を伸ばすと、キィと音を立てて一騎を乗せたブランコは空中に滑り出した。
小さい頃にまるで空を飛んでいるかのような気分になれたブランコは、今でもその感覚を少しだけ思い出させつつ、
でも飛べていた訳ではないんだとその気持ちよりも確かに現実を実感してしまう自分がいる。
遊具の原理なんて解らないからこそ遊べるのに、と成長したらしい自分に溜息をひとつ。
こうやって色んなものを無くして、どうやって大人になっていくんだろうと漠然と思ってしまう。
大人でもなく子供でもないような曖昧な自分の位置づけに、
たまに途方に暮れるような感覚に陥るのは高校生になってからが初めてだった。
「部活、楽しいか?」
急に総士が言った。
一騎はまだ小さく揺れていたブランコを地面に両足を付けて止める。
ざざっ、と小石が音を立てて微かに砂埃が上がった。
「楽しいよ。まぁ怪我しちゃったから、そうでもないかも、だけど」
言いつつ一騎は部活動の様子に思いを馳せる。
入部してから今まで、確かに楽しいの一言だった。
練習をすればするほど上がる能力と技術、それを認められて試合に出させてもらえる喜び。
そして何といっても、試合でのチームへの信頼と連携、
そして繰り出す戦略的な攻撃と勝利が言葉では言い表せない程の快感だと一騎は思う。
今の自分はそこからちょっと遠ざかった所にいるのかと思うと、
悔しくて寂しくてなんだか背筋がぶるっと震えるような感じがする。
思わず隣の総士を見ると、そっか、でもきっとまた楽しくなるよ、と言って優しく笑った。だから、
「黙って落ち込むなよ?」
「え?」
意味が解らずに総士を見つめると、お前、黙ってぐるぐる考えすぎて、結局考える前より悪い事になるから、と言う。
笑顔を崩さず完璧に他人の考察をし抜いてる所とかがもう、
「叶わないや、総士には」
と言って苦笑すれば、笑うのも忘れるなよこの3週間と言ってその腕が伸びてきたかと思うと、ぱち、とおでこを叩かれた。
そういえば小さい頃もよく叩かれてたっけな、と微かな痛みとともに思い出まで蘇る。
あの頃もそうだったけど、今でもそうだな。
と、一騎はほんわかと安心した気持ちが自分の中に広がっていくのを感じた。
いつのまにかすっかり暗くなった空に冷たい海風が吹き付けてくる。
一騎は思わず肩を竦めた。
「そろそろ帰るぞ」
そう言って総士はブランコから立ち上がると、地面に置いていた鞄を持った。
一騎も続いて立ち上がると、また目の前に差し出された手。
ありがと、と呟いて自分の手を重ねれば、
「寒くなったらすぐ言えよ」
と重ねて心配されてしまい、恥ずかしがるのも今更だったので、うん、と小さく返事をして歩き始めた。
青いシートの塊の中を抜けていく。
3週間後にはこれすらも消えて何もなくなってしまうのかと思うと何となくやるせないようなもやもやとした気持ちが拭えない。
「早く、帰ろ」
数歩前の総士の背中に声を掛けると、そうだな、と優しい声が返ってくる。
ああ、やっぱり叶わないや。
そう思って一騎は目を細めると、繋いだ手にぎゅ、と力を込めて総士の後を追いかけた。
空はいよいよ本格的に青から黒へとグラデーションの様相を示していて、
時折吹く遠くからの海風が火照った肌に触れてひんやりとする。
シャッターの殆ど閉じている店、人通りなど勿論なく、ただ古びた看板が並んでいる。
車窓から何となく眺めていた無人駅が、実際に降り立つと
こんなにも寂しい町並みだったなんて想像もつかなかったとふと思う。
公園まではあと少しの筈だ。
いつも通る道と逆の方向から行くというのは、見た事のない景色が次々に現れて
普段なら好奇心溢れんばかりになるというのに、なぜか今日は違う。
総士が繋いでくれる手がなかったら、どこか知らない異次元の世界にでも連れていかれそうな気配が、
曲がり角や、電柱と塀の隙間にいっぱい潜んでいるような気がしてなんだかとても怖かった。
「もう少しだから」
気遣うような総士の声がして、急に現実世界に引き戻されたかのような感覚がする。
うん、と小さく返事をする代わりに、繋がれた手に少しだけ力を込めた。
日が完全に落ちて急に辺りは暗さが目立つようになり、
上着を脱いでいた総士の白いYシャツだけが白く浮かび上がる。
それをしっかり見つめると、その背が遠ざかってしまわないように一騎はひたすら総士を追いかけた。
「あ」
少し前を歩いていた総士が急に立ち止まる。
その凝視する先に一騎も視線を移すと、そこには青いビニールシートを被せられたいくつもの遊具がそこかしこにある。
昔よく遊んだジャングルジムやすべり台がすっぽりとシートで覆われていて、
切れ掛けの街灯の光と相まってなんだか気味の悪い青い怪物のように見えた。
「なくなるんだ、この公園」
総士がぽつりと呟いた。
入り口に立てかけられた工事用の看板には取り壊し工事の日程が記されていて、
その後の用途は5階建てのマンションになるとの事だった。
海に近いこの私鉄沿線の土地は、最近になって都心からのベッドタウン拡大に伴う宅地化が進み、
土地の所有者が古くからの家を壊して集合住宅にする動きが高まっている。
確かにこの周辺では小中学校も合併による閉鎖が相次ぎ、義務教育年齢以下の子供を持つ家庭は極端に少なくなっていた。
その煽りを受けての公園の取り壊しなのだろう。
仕方ないといえば仕方ないのだが、自分達に楽しい思い出として刻まれた場所が無くなるというのは、
なんだか心にぽっかりと穴が開いてしまうような、そんな寂しい気がした。
「ブランコ、行こう」
一騎は唯一シートのかけられていなかった一番奥のブランコに総士を促した。
青いシートに包まれた巨大な物体の間を抜けて辿り着けば、そこには昔と変わらず小さなブランコが設置されていた。
所々ペンキが剥げて中の金属が茶色い色をむき出しにしている。
どうやら、幼少時代に一度塗り直しされてからずっとそのままだったらしい。
一騎と総士は隣同士に並ぶブランコに腰掛けた。
「なんか、さみしいね」
一騎は下を向いたままぽつりと呟く。
少し勢いをつけて背伸びをした所から足を伸ばすと、キィと音を立てて一騎を乗せたブランコは空中に滑り出した。
小さい頃にまるで空を飛んでいるかのような気分になれたブランコは、今でもその感覚を少しだけ思い出させつつ、
でも飛べていた訳ではないんだとその気持ちよりも確かに現実を実感してしまう自分がいる。
遊具の原理なんて解らないからこそ遊べるのに、と成長したらしい自分に溜息をひとつ。
こうやって色んなものを無くして、どうやって大人になっていくんだろうと漠然と思ってしまう。
大人でもなく子供でもないような曖昧な自分の位置づけに、
たまに途方に暮れるような感覚に陥るのは高校生になってからが初めてだった。
「部活、楽しいか?」
急に総士が言った。
一騎はまだ小さく揺れていたブランコを地面に両足を付けて止める。
ざざっ、と小石が音を立てて微かに砂埃が上がった。
「楽しいよ。まぁ怪我しちゃったから、そうでもないかも、だけど」
言いつつ一騎は部活動の様子に思いを馳せる。
入部してから今まで、確かに楽しいの一言だった。
練習をすればするほど上がる能力と技術、それを認められて試合に出させてもらえる喜び。
そして何といっても、試合でのチームへの信頼と連携、
そして繰り出す戦略的な攻撃と勝利が言葉では言い表せない程の快感だと一騎は思う。
今の自分はそこからちょっと遠ざかった所にいるのかと思うと、
悔しくて寂しくてなんだか背筋がぶるっと震えるような感じがする。
思わず隣の総士を見ると、そっか、でもきっとまた楽しくなるよ、と言って優しく笑った。だから、
「黙って落ち込むなよ?」
「え?」
意味が解らずに総士を見つめると、お前、黙ってぐるぐる考えすぎて、結局考える前より悪い事になるから、と言う。
笑顔を崩さず完璧に他人の考察をし抜いてる所とかがもう、
「叶わないや、総士には」
と言って苦笑すれば、笑うのも忘れるなよこの3週間と言ってその腕が伸びてきたかと思うと、ぱち、とおでこを叩かれた。
そういえば小さい頃もよく叩かれてたっけな、と微かな痛みとともに思い出まで蘇る。
あの頃もそうだったけど、今でもそうだな。
と、一騎はほんわかと安心した気持ちが自分の中に広がっていくのを感じた。
いつのまにかすっかり暗くなった空に冷たい海風が吹き付けてくる。
一騎は思わず肩を竦めた。
「そろそろ帰るぞ」
そう言って総士はブランコから立ち上がると、地面に置いていた鞄を持った。
一騎も続いて立ち上がると、また目の前に差し出された手。
ありがと、と呟いて自分の手を重ねれば、
「寒くなったらすぐ言えよ」
と重ねて心配されてしまい、恥ずかしがるのも今更だったので、うん、と小さく返事をして歩き始めた。
青いシートの塊の中を抜けていく。
3週間後にはこれすらも消えて何もなくなってしまうのかと思うと何となくやるせないようなもやもやとした気持ちが拭えない。
「早く、帰ろ」
数歩前の総士の背中に声を掛けると、そうだな、と優しい声が返ってくる。
ああ、やっぱり叶わないや。
そう思って一騎は目を細めると、繋いだ手にぎゅ、と力を込めて総士の後を追いかけた。
君と僕とあの夏の日と2
2011.11.20 Sunday
「なんか、一騎らしいなそれ」
隣に座る総士はそう言って笑った。
社会人の帰宅時間より少し早めで人のまばらな車内には、昼間より幾分柔らかな光の夕日が斜めに差し込み、
辺りをオレンジ一色に染め上げている。
長い一列の座席に自分達以外誰も座っていないのをいいことに、
部活の用意が入った大きめの鞄は自分の座る隣に投げ出すように置いた。
カタン、カタンと心地よい揺れに身を委ねながら窓の外を見れば、
同じく夕日に照らされた海がオレンジ色の光を反射しているのが遠目に見える。
その上に大きく斜めに傾いて位置する太陽が視界の隅に入り、思わず眩しさに片目をひそめた。
「でもさ、結構落ちてんだ。出たかったからさ」
一騎は呟いてふぅ、と肩を竦める。
あの後、教室を出て真っ直ぐに校門に向かった。
約束の時間よりも数分早かったのは知っていたので待つのは何ともなかったのだが、
遠くから聞こえる部員達の声には耳を塞ぎたくて仕方なかった。
どうした?一騎
掛けられた声にびっくりして顔を上げれば、いつのまにか帰り支度を整えた総士が来ていて、
知らぬ間に深く俯いてしまっている自分がいたことに気付かされた。
ううん、なんでもない
取り繕うように曖昧な笑みを浮かべた自分に、暑いから早く電車に乗ろうと敢えてこちらを見ずに言ったのは、
彼なりの優しさなんだろうな、と忘れていた懐かしさのようなものがこみ上げる。
駅までの道はお互い無言だった。
ギラギラと照りつける太陽に気力が根こそぎ奪われるような感じがしたけれど、不思議と居心地が悪いとは思わなかった。
そして学校から遠ざかるにつれ聞こえなくなった部活動の音は、驚くくらい自分の心のざわつきを無くしていく。
うだるような暑さで相変わらず怪我をした右目はじくじくと痛んでいたが、そんな痛みはこれっぽっちも気にはならなかった。
「一騎なら大丈夫」
総士は言った。
昔からそうだったじゃないか、と彼は続ける。
目線は窓の外の光る海に留めながら、でも彼は微笑んでいるんだろうなと思う。
それは幼い頃からの、総士の魔法で。
それを言われたらどんなに無理だと思えることも最終的には乗り越えられてしまう魔法の言葉。
聞けば不思議と不安と後悔で一杯の気持ちをうまく封じ込めてしまうことが出来る気がする。
そうして心に広がるのは少しの希望的観測と安心感。
ああ、そういえばこんな魔法があるんだったっけ、と一騎はぼんやり思う。
「そう、かも」
思わず呟いた自分に、さっきまであんなに落ち込んでたの誰だよ、とまた隣で彼が笑ったであろう気配を感じる。
ふ、とつられて自分も口元が緩んだ。
「やっと笑ったな」
え?と振り向けば総士は少し眉を下げてあのお兄ちゃん気質な微笑みを浮かべている。
この昔からの上から目線は決して嫌な気持ちはしないのだが、
何だか自分の事を自分よりもちゃんと見ているような気がして、その顔を見たまま何も言えなくなってしまう。
「お前は笑ってる方がいいよ」
そう言って総士は一騎の方に手を伸ばすと、右目を覆う包帯にそっと触れた。
布越しに感じる自分とは別の温もり、くすぐったいようなやわらかな緊張が身体に走る、
彼はそのまま右瞼の上で親指を止めると、痛むのか、と聞いてきた。
「麻酔切れちゃったけど、こんなの大丈夫」
言って左目を細めて笑えば、そっか一騎だもんな、と言いながら彼も笑った。
離れていく彼の手に名残惜しさを感じるかのように、左目と一緒に細めてしまった右目にずきん、と痛みが走った。
「ねぇ、次の駅で降りよう?」
一騎は言った。
本当なら、一騎達が降りるのはもう1つ先の駅だった。
けれど次の駅には、昔よく一緒に遊んだ公園がある。
普段通りに降りて少し歩いてもよかったのだが、
なんだか高校生になって初めて持った定期の恩恵を受けてみたい気持ちの方が大きくて、思わず口にしてしまった。
そんな一騎の意図する所を理解したのか、総士はいいよ、と一言告げて隣に置いてあった鞄を膝の上に持ち直す。
「ありがと」
ひさしぶりだね、ほんと。
小さい頃から飽きる程行ってその景色は目を瞑っても思い出せるくらいの公園にただ行くだけなのに、
なぜか初めて行く場所のように鼓動が高鳴るのを感じる。
総士も、こんな気持ちなのかな?
だったらいいな、と心のどこかで思う。
ポケットに手を突っ込んでウォレットチェーンに繋がった定期入れを出した。
真新しいそれから覗く定期には自宅の最寄り駅と学校の最寄り駅が表示されていて、
徒歩通学しか知らなかった一騎はなんだか少し背伸びをしたような気分になる。
そういえば、表示されている駅以外で降りるなんて初めてだ、と思うとそれだけでワクワクする自分がいた。
次は××駅、降車の方は~
控えめの音量で車内アナウンスが流れる。
ふと後ろの窓を見やれば、次第に緩やかになるスピードで薄暗いプラットホームが近付いてくる。
完全に電車が止まってしまう前に、隣に無造作に置いた鞄を肩に掛けると、先に立ち上がっていた総士に続く。
無人駅に電車が止まった、降りるのはどうやら自分達だけらしい。
少しの間があって、心なしか重めの音を立てて開いたドアからホームに降り立とうとした瞬間、目の前に手が差し出された。
「危ないから」
と総士は一言告げて、手につかまれとでも言いたげに差し出してくるので素直に手を重ねると、
すぐにぎゅ、と握り返されてゆっくり前に引かれる。
早くもなく遅くもないその速度にまた彼なりの優しさが感じられてでも気付かれないように下を向いたまま笑みをこぼした。
そういえば彼も片目だけの視界だったんだな、と今更ながらに思い出す。
この最初の違和感を彼は何年も前に経験していたんだ、となんだか仲間を見つけたような嬉しい気持ちになった。
「よろしく、先輩」
期間限定だけど。
総士は少し驚いたような表情になって、でもすぐにあの柔らかな笑顔になった。
なんだか自分の方が恥ずかしくなってしまって、一時的に繋いだ手を離そうとしたけれど、
なぜか総士はそれを許してくれなかった。
なんか恥ずかしいよ、と小声で抵抗したけれど、暗くなってきたから危ないだろ、
と振り向いた真面目な顔に一蹴されてしまう。
それに誰もいないし見えないよ、暗いから、と言った彼も少し顔が赤かったような気がするのは思い違いかもしれないけれど。
「行こう」
総士が言った。
手を引かれるまま古びた改札を通り過ぎる。
無人駅だったら定期があっても無くても一緒だな、となんだかちょっと馬鹿馬鹿しい気持ちがしたけれど、
繋いだ手と逆の手に持った定期はそこにいない駅員に見せるかのように持ち上げた。
パチパチと音を立てる蛍光灯に反射して表面が白く光ったのがやけに印象的だった。
「ちょっと涼しくなったね」
一騎は1歩先くらいの距離を歩く総士に言った。
日が落ちたからな、と彼は言って繋いだ手に少し力が込められたような気がする。
実際は麻酔が完全に切れてズキズキと痛みが走っていたけれど、総士と同じように世界が見えてるんだ、
と思うとなんだか彼との新しい繋がりを見つけたような気がして、その痛みも自然と我慢出来る自分がいた。
見上げれば東の空が徐々に青から黒へと変わり始めて、その中にキラキラと星がいくつも散らばっている。
片目だけで急に二次元のようにぺたりと見える世界にも慣れていけるような、そんな気がした。
隣に座る総士はそう言って笑った。
社会人の帰宅時間より少し早めで人のまばらな車内には、昼間より幾分柔らかな光の夕日が斜めに差し込み、
辺りをオレンジ一色に染め上げている。
長い一列の座席に自分達以外誰も座っていないのをいいことに、
部活の用意が入った大きめの鞄は自分の座る隣に投げ出すように置いた。
カタン、カタンと心地よい揺れに身を委ねながら窓の外を見れば、
同じく夕日に照らされた海がオレンジ色の光を反射しているのが遠目に見える。
その上に大きく斜めに傾いて位置する太陽が視界の隅に入り、思わず眩しさに片目をひそめた。
「でもさ、結構落ちてんだ。出たかったからさ」
一騎は呟いてふぅ、と肩を竦める。
あの後、教室を出て真っ直ぐに校門に向かった。
約束の時間よりも数分早かったのは知っていたので待つのは何ともなかったのだが、
遠くから聞こえる部員達の声には耳を塞ぎたくて仕方なかった。
どうした?一騎
掛けられた声にびっくりして顔を上げれば、いつのまにか帰り支度を整えた総士が来ていて、
知らぬ間に深く俯いてしまっている自分がいたことに気付かされた。
ううん、なんでもない
取り繕うように曖昧な笑みを浮かべた自分に、暑いから早く電車に乗ろうと敢えてこちらを見ずに言ったのは、
彼なりの優しさなんだろうな、と忘れていた懐かしさのようなものがこみ上げる。
駅までの道はお互い無言だった。
ギラギラと照りつける太陽に気力が根こそぎ奪われるような感じがしたけれど、不思議と居心地が悪いとは思わなかった。
そして学校から遠ざかるにつれ聞こえなくなった部活動の音は、驚くくらい自分の心のざわつきを無くしていく。
うだるような暑さで相変わらず怪我をした右目はじくじくと痛んでいたが、そんな痛みはこれっぽっちも気にはならなかった。
「一騎なら大丈夫」
総士は言った。
昔からそうだったじゃないか、と彼は続ける。
目線は窓の外の光る海に留めながら、でも彼は微笑んでいるんだろうなと思う。
それは幼い頃からの、総士の魔法で。
それを言われたらどんなに無理だと思えることも最終的には乗り越えられてしまう魔法の言葉。
聞けば不思議と不安と後悔で一杯の気持ちをうまく封じ込めてしまうことが出来る気がする。
そうして心に広がるのは少しの希望的観測と安心感。
ああ、そういえばこんな魔法があるんだったっけ、と一騎はぼんやり思う。
「そう、かも」
思わず呟いた自分に、さっきまであんなに落ち込んでたの誰だよ、とまた隣で彼が笑ったであろう気配を感じる。
ふ、とつられて自分も口元が緩んだ。
「やっと笑ったな」
え?と振り向けば総士は少し眉を下げてあのお兄ちゃん気質な微笑みを浮かべている。
この昔からの上から目線は決して嫌な気持ちはしないのだが、
何だか自分の事を自分よりもちゃんと見ているような気がして、その顔を見たまま何も言えなくなってしまう。
「お前は笑ってる方がいいよ」
そう言って総士は一騎の方に手を伸ばすと、右目を覆う包帯にそっと触れた。
布越しに感じる自分とは別の温もり、くすぐったいようなやわらかな緊張が身体に走る、
彼はそのまま右瞼の上で親指を止めると、痛むのか、と聞いてきた。
「麻酔切れちゃったけど、こんなの大丈夫」
言って左目を細めて笑えば、そっか一騎だもんな、と言いながら彼も笑った。
離れていく彼の手に名残惜しさを感じるかのように、左目と一緒に細めてしまった右目にずきん、と痛みが走った。
「ねぇ、次の駅で降りよう?」
一騎は言った。
本当なら、一騎達が降りるのはもう1つ先の駅だった。
けれど次の駅には、昔よく一緒に遊んだ公園がある。
普段通りに降りて少し歩いてもよかったのだが、
なんだか高校生になって初めて持った定期の恩恵を受けてみたい気持ちの方が大きくて、思わず口にしてしまった。
そんな一騎の意図する所を理解したのか、総士はいいよ、と一言告げて隣に置いてあった鞄を膝の上に持ち直す。
「ありがと」
ひさしぶりだね、ほんと。
小さい頃から飽きる程行ってその景色は目を瞑っても思い出せるくらいの公園にただ行くだけなのに、
なぜか初めて行く場所のように鼓動が高鳴るのを感じる。
総士も、こんな気持ちなのかな?
だったらいいな、と心のどこかで思う。
ポケットに手を突っ込んでウォレットチェーンに繋がった定期入れを出した。
真新しいそれから覗く定期には自宅の最寄り駅と学校の最寄り駅が表示されていて、
徒歩通学しか知らなかった一騎はなんだか少し背伸びをしたような気分になる。
そういえば、表示されている駅以外で降りるなんて初めてだ、と思うとそれだけでワクワクする自分がいた。
次は××駅、降車の方は~
控えめの音量で車内アナウンスが流れる。
ふと後ろの窓を見やれば、次第に緩やかになるスピードで薄暗いプラットホームが近付いてくる。
完全に電車が止まってしまう前に、隣に無造作に置いた鞄を肩に掛けると、先に立ち上がっていた総士に続く。
無人駅に電車が止まった、降りるのはどうやら自分達だけらしい。
少しの間があって、心なしか重めの音を立てて開いたドアからホームに降り立とうとした瞬間、目の前に手が差し出された。
「危ないから」
と総士は一言告げて、手につかまれとでも言いたげに差し出してくるので素直に手を重ねると、
すぐにぎゅ、と握り返されてゆっくり前に引かれる。
早くもなく遅くもないその速度にまた彼なりの優しさが感じられてでも気付かれないように下を向いたまま笑みをこぼした。
そういえば彼も片目だけの視界だったんだな、と今更ながらに思い出す。
この最初の違和感を彼は何年も前に経験していたんだ、となんだか仲間を見つけたような嬉しい気持ちになった。
「よろしく、先輩」
期間限定だけど。
総士は少し驚いたような表情になって、でもすぐにあの柔らかな笑顔になった。
なんだか自分の方が恥ずかしくなってしまって、一時的に繋いだ手を離そうとしたけれど、
なぜか総士はそれを許してくれなかった。
なんか恥ずかしいよ、と小声で抵抗したけれど、暗くなってきたから危ないだろ、
と振り向いた真面目な顔に一蹴されてしまう。
それに誰もいないし見えないよ、暗いから、と言った彼も少し顔が赤かったような気がするのは思い違いかもしれないけれど。
「行こう」
総士が言った。
手を引かれるまま古びた改札を通り過ぎる。
無人駅だったら定期があっても無くても一緒だな、となんだかちょっと馬鹿馬鹿しい気持ちがしたけれど、
繋いだ手と逆の手に持った定期はそこにいない駅員に見せるかのように持ち上げた。
パチパチと音を立てる蛍光灯に反射して表面が白く光ったのがやけに印象的だった。
「ちょっと涼しくなったね」
一騎は1歩先くらいの距離を歩く総士に言った。
日が落ちたからな、と彼は言って繋いだ手に少し力が込められたような気がする。
実際は麻酔が完全に切れてズキズキと痛みが走っていたけれど、総士と同じように世界が見えてるんだ、
と思うとなんだか彼との新しい繋がりを見つけたような気がして、その痛みも自然と我慢出来る自分がいた。
見上げれば東の空が徐々に青から黒へと変わり始めて、その中にキラキラと星がいくつも散らばっている。
片目だけで急に二次元のようにぺたりと見える世界にも慣れていけるような、そんな気がした。
君と僕とあの夏の日と1
2011.11.20 Sunday
「どーしよっかなぁ・・・」
一騎はひとり、誰も居なくなった教室でぼんやりと窓の外を見ては溜息を吐いた。
そっと右手を顔の輪郭に沿わせると、真新しい包帯の感触。
数時間前から右目を覆うそれは、夏の気温と体温が伝わってなんだか生温い。
少々汗ばんだ包帯は事あるごとに違和感を感じさせて先刻から気になって仕方がなかった。
切れかけの麻酔で疼き出す痛みが余計に暑さを助長させる。
無傷の左目だけを動かして辺りを確認するも、
慣れない片目だけの視界に遠近感が狂って思わず目を閉じたくなってしまう。
「大会、このままじゃ危ないよなぁ」
今から数時間程前。
階段から落ちそうになった同学年の女子を助けようとして手を伸ばしたものの運悪く自分は下敷きになり、
彼女が運んでいた実験用のガラス製ビーカーの破片が右目に直撃した。
幸い眼球には傷が付かなかったものの、破片は右瞼を深く切り刻み出血量が半端なかった為、
一時辺りは騒然となってしまった。
右目を押さえたまま呆然と座り込んでいた一騎は、駆けつけた保険医に手を引かれ保健室へと連れてこられたものの、
傷が深すぎて完全な処置が出来ず、とりあえず応急処置だけ施して近くの大学病院へと行くはめになった。
そこで右瞼の縫合処置をしてもらったのだが、担当医師は抜糸までの日数を3週間程と一騎に告げた。
本来なら2週間もかからずに抜糸が出来るそうなのだが、真夏という季節のせいもあってか、
他の季節よりも治りが遅いらしい。
抜糸まで消毒に毎日来るかと言われたが断った。
それなら絶対に朝夕塗るのを忘れないように、と化膿止めを10本も渡されて学校に戻ったのがつい30分程前のこと。
「3週間後なんだよなぁ、大会」
高校に入ってから一騎が所属したのは男子バレーボール部。
前々から運動神経の良さで評判だった一騎は、入学と同時にひっきりなしに運動部の勧誘が教室前に並ぶほど
引く手あまたの状態だったのだが、バスケかサッカーだろうという大方の予想を裏切って
バレーボール部に入部することにした。
特に理由があった訳ではないのだが、バスケ部を見に行った隣で練習していたバレー部の部員が、
軽々とステップを踏んで鋭角のスパイクを次々に決めるのを目にし、自分もあんな風に飛んで打ってみたい、
そう思ったのがきっかけだった。
入部してからの一騎は一年生ながらめきめきと頭角をあらわし、夏前の地区予選では補欠出場出来るまでの実力をつけた。
ポジションはかねてからの希望だったレフト。
身長こそ先輩達には遠く及ばない一騎だったが、持ち前のジャンプ力で高さをカバーし、
部内での最高到達点をいつしかマークするようになった。
連日行われるスパイク練にも参加するようになり、アタックラインよりも内側に落とすことが出来る鋭角スパイクを
習得してからは、一年生といえど部内での注目は上がっていった。
そして夏前の大会に補欠で選ばれ、試合の流れを変えるためのピンチサーバーとしてその背番号が呼ばれた。
交代のために先輩と手を合わせた数秒間の緊張はこれから先も忘れないと思う。
何のために今自分が呼ばれたのか、自分がしなければならないことは何か、それを張り裂けそうな緊張と高揚の中、
審判から流れてきたボールを手に取り深呼吸をする。
見つけた
ネットの向こうに広がる相手コートを数秒間見つめ、守りが手薄になる箇所を弾き出す。
そこに狙いを定め、左手に持ったボールを一気に天井高く投げては間髪入れずにラインぎりぎりまでステップを踏んだ。
後ろに引いた右手が落ちてきたボールを捉えた瞬間、ありったけの力を込めて右斜め上から一直線に打ち落とす。
一騎は毎日朝練、昼練、放課後と欠かさず練習して習得した高速無回転のジャンピングサーブでサービスエースを取り、
連続サーブポイントを重ねると、流れは一気にこちらのペースとなり、そのまま第3セットまで取りきった。
真壁、夏の本戦出られるか?
と監督から聞かれたのがつい数日前のこと。
今のところは補欠で選手登録をしておくが、今後の練習次第ではスタメン切り替えもあるとのことで、
一騎はその日以降の練習にこれまで以上の力を注いでいた。
「今頃3メンしてるのかなぁ」
一騎はうだるような暑さの中、2階の教室から見える体育館の開け放たれたドアを見つめた。
ナイスカット、と大きな声がこちらまで聞こえてくる。
本当ならあの一本を上げるのは自分だった筈なのに、と今更ながらに悔しさがこみ上げてしまう。
別に自分の取った行動を後悔している訳ではない。
あの時自分が手を差し伸べなければ、彼女はもっと酷い怪我をしていただろうから。
けど、タイミングが悪すぎる。
せめて夏の本戦が終わってから怪我してくれよ、と一騎は心底自分の運の悪さを呪っていた。
「・・・一騎?」
突如聞こえた声に驚いて一騎はその声のした方へ顔を向ける。
「そーし」
すると、何やら書類を沢山抱えた総士が廊下からこちらを伺っていた。
「お前、怪我・・・したのか?」
総士は律儀に左右を確認すると、そっと教室内に入ってくる。
うん、ちょっとね、と一騎は浮かない顔で答えると総士が座れるように隣の椅子を引いた。
「部活、見学しなくてもいいのか?」
書類を綺麗に机の上に整理し終えた総士が尋ねてくる。
一騎はもう一度右目の包帯にそっと触ると深く溜息を吐いた。
「今日は、無理かも。気分的に」
告げた声が余りにも弱々しくて一騎は慌てて隣を見ると、総士は少し顔をしかめて、でもすぐに笑う。
「じゃあ、一緒に帰らないか?」
「え?」
だって、お前今日は何もないんだろ?と言われる。
悔しいけど、勝手に落ち込んでるだけで特に用事が何もなかったのは事実なので、いいよ、とだけ答えた。
「じゃあ、10分後に校門前で」
総士はそう言うと、机の書類を持ちやすいように積み上げ始める。
なんだか一人では心許なさそうだったので、無言で近くにあった書類を邪魔にならないように一緒に積んだ。
「一緒に帰るのなんて、いつぶりだろうな」
椅子から立ち上がりかけた総士はそう言ってふんわり笑う。
そういえば高校に入学してからは帰るどころか顔すらろくに合わせたことが無かったかもしれない。
総士は一騎の唯一の幼なじみだった。
幼少の頃は毎日遊び、小中学校も同じクラスだったが、高校に入って初めて違うクラスになった。
別に取り立てて仲が悪くなった訳でもなかったのだが、入学式から夏前までバタバタと新入生として
学校に馴染もうと必死になっていた余り、違うクラスで部活にも入っていない彼とは会う機会が殆ど無くなっていた。
「3週間、暇なんだ」
気がついたらなぜか期限付きで変なことを口走っていた。
発してから数秒経ってふと気付く。
また訳わかんないこと言っちゃったかな、と一騎がおそるおそる総士を見ると、
「じゃあ、付き合うよ」
と彼は微笑んだ。
なんだかその笑顔は昔から変わらないお兄ちゃん気質のそれで、
何となく乾いていた心に水が染み渡っていくような感覚がする。
生徒会は今の時期忙しくなかったっけ、とか色んなことが頭を掠めたけれど、
この暑さのせいでどこかへ溶けて消えてしまったようだった。
「ありがと」
ちょっと気恥ずかしくなって言ったはいいが一騎は俯いてしまう。
じゃあ、今から10分後な、と言って彼は足早に教室を去っていった。
ふ、と空気が少し動いてそこから風が起こる。
ここからは見えない廊下に真新しい革靴の音が木霊していく。
「たまには、いいかも」
いつしか周りに紛れて薄れてしまった幼なじみという近かったはずの距離をまた再確認するような感覚。
ちょっとむず痒いようなそれでいて微笑ましいような懐かしさがこみ上げて、
一騎は時計を確認すると鞄を持って教室を後にした。
一騎はひとり、誰も居なくなった教室でぼんやりと窓の外を見ては溜息を吐いた。
そっと右手を顔の輪郭に沿わせると、真新しい包帯の感触。
数時間前から右目を覆うそれは、夏の気温と体温が伝わってなんだか生温い。
少々汗ばんだ包帯は事あるごとに違和感を感じさせて先刻から気になって仕方がなかった。
切れかけの麻酔で疼き出す痛みが余計に暑さを助長させる。
無傷の左目だけを動かして辺りを確認するも、
慣れない片目だけの視界に遠近感が狂って思わず目を閉じたくなってしまう。
「大会、このままじゃ危ないよなぁ」
今から数時間程前。
階段から落ちそうになった同学年の女子を助けようとして手を伸ばしたものの運悪く自分は下敷きになり、
彼女が運んでいた実験用のガラス製ビーカーの破片が右目に直撃した。
幸い眼球には傷が付かなかったものの、破片は右瞼を深く切り刻み出血量が半端なかった為、
一時辺りは騒然となってしまった。
右目を押さえたまま呆然と座り込んでいた一騎は、駆けつけた保険医に手を引かれ保健室へと連れてこられたものの、
傷が深すぎて完全な処置が出来ず、とりあえず応急処置だけ施して近くの大学病院へと行くはめになった。
そこで右瞼の縫合処置をしてもらったのだが、担当医師は抜糸までの日数を3週間程と一騎に告げた。
本来なら2週間もかからずに抜糸が出来るそうなのだが、真夏という季節のせいもあってか、
他の季節よりも治りが遅いらしい。
抜糸まで消毒に毎日来るかと言われたが断った。
それなら絶対に朝夕塗るのを忘れないように、と化膿止めを10本も渡されて学校に戻ったのがつい30分程前のこと。
「3週間後なんだよなぁ、大会」
高校に入ってから一騎が所属したのは男子バレーボール部。
前々から運動神経の良さで評判だった一騎は、入学と同時にひっきりなしに運動部の勧誘が教室前に並ぶほど
引く手あまたの状態だったのだが、バスケかサッカーだろうという大方の予想を裏切って
バレーボール部に入部することにした。
特に理由があった訳ではないのだが、バスケ部を見に行った隣で練習していたバレー部の部員が、
軽々とステップを踏んで鋭角のスパイクを次々に決めるのを目にし、自分もあんな風に飛んで打ってみたい、
そう思ったのがきっかけだった。
入部してからの一騎は一年生ながらめきめきと頭角をあらわし、夏前の地区予選では補欠出場出来るまでの実力をつけた。
ポジションはかねてからの希望だったレフト。
身長こそ先輩達には遠く及ばない一騎だったが、持ち前のジャンプ力で高さをカバーし、
部内での最高到達点をいつしかマークするようになった。
連日行われるスパイク練にも参加するようになり、アタックラインよりも内側に落とすことが出来る鋭角スパイクを
習得してからは、一年生といえど部内での注目は上がっていった。
そして夏前の大会に補欠で選ばれ、試合の流れを変えるためのピンチサーバーとしてその背番号が呼ばれた。
交代のために先輩と手を合わせた数秒間の緊張はこれから先も忘れないと思う。
何のために今自分が呼ばれたのか、自分がしなければならないことは何か、それを張り裂けそうな緊張と高揚の中、
審判から流れてきたボールを手に取り深呼吸をする。
見つけた
ネットの向こうに広がる相手コートを数秒間見つめ、守りが手薄になる箇所を弾き出す。
そこに狙いを定め、左手に持ったボールを一気に天井高く投げては間髪入れずにラインぎりぎりまでステップを踏んだ。
後ろに引いた右手が落ちてきたボールを捉えた瞬間、ありったけの力を込めて右斜め上から一直線に打ち落とす。
一騎は毎日朝練、昼練、放課後と欠かさず練習して習得した高速無回転のジャンピングサーブでサービスエースを取り、
連続サーブポイントを重ねると、流れは一気にこちらのペースとなり、そのまま第3セットまで取りきった。
真壁、夏の本戦出られるか?
と監督から聞かれたのがつい数日前のこと。
今のところは補欠で選手登録をしておくが、今後の練習次第ではスタメン切り替えもあるとのことで、
一騎はその日以降の練習にこれまで以上の力を注いでいた。
「今頃3メンしてるのかなぁ」
一騎はうだるような暑さの中、2階の教室から見える体育館の開け放たれたドアを見つめた。
ナイスカット、と大きな声がこちらまで聞こえてくる。
本当ならあの一本を上げるのは自分だった筈なのに、と今更ながらに悔しさがこみ上げてしまう。
別に自分の取った行動を後悔している訳ではない。
あの時自分が手を差し伸べなければ、彼女はもっと酷い怪我をしていただろうから。
けど、タイミングが悪すぎる。
せめて夏の本戦が終わってから怪我してくれよ、と一騎は心底自分の運の悪さを呪っていた。
「・・・一騎?」
突如聞こえた声に驚いて一騎はその声のした方へ顔を向ける。
「そーし」
すると、何やら書類を沢山抱えた総士が廊下からこちらを伺っていた。
「お前、怪我・・・したのか?」
総士は律儀に左右を確認すると、そっと教室内に入ってくる。
うん、ちょっとね、と一騎は浮かない顔で答えると総士が座れるように隣の椅子を引いた。
「部活、見学しなくてもいいのか?」
書類を綺麗に机の上に整理し終えた総士が尋ねてくる。
一騎はもう一度右目の包帯にそっと触ると深く溜息を吐いた。
「今日は、無理かも。気分的に」
告げた声が余りにも弱々しくて一騎は慌てて隣を見ると、総士は少し顔をしかめて、でもすぐに笑う。
「じゃあ、一緒に帰らないか?」
「え?」
だって、お前今日は何もないんだろ?と言われる。
悔しいけど、勝手に落ち込んでるだけで特に用事が何もなかったのは事実なので、いいよ、とだけ答えた。
「じゃあ、10分後に校門前で」
総士はそう言うと、机の書類を持ちやすいように積み上げ始める。
なんだか一人では心許なさそうだったので、無言で近くにあった書類を邪魔にならないように一緒に積んだ。
「一緒に帰るのなんて、いつぶりだろうな」
椅子から立ち上がりかけた総士はそう言ってふんわり笑う。
そういえば高校に入学してからは帰るどころか顔すらろくに合わせたことが無かったかもしれない。
総士は一騎の唯一の幼なじみだった。
幼少の頃は毎日遊び、小中学校も同じクラスだったが、高校に入って初めて違うクラスになった。
別に取り立てて仲が悪くなった訳でもなかったのだが、入学式から夏前までバタバタと新入生として
学校に馴染もうと必死になっていた余り、違うクラスで部活にも入っていない彼とは会う機会が殆ど無くなっていた。
「3週間、暇なんだ」
気がついたらなぜか期限付きで変なことを口走っていた。
発してから数秒経ってふと気付く。
また訳わかんないこと言っちゃったかな、と一騎がおそるおそる総士を見ると、
「じゃあ、付き合うよ」
と彼は微笑んだ。
なんだかその笑顔は昔から変わらないお兄ちゃん気質のそれで、
何となく乾いていた心に水が染み渡っていくような感覚がする。
生徒会は今の時期忙しくなかったっけ、とか色んなことが頭を掠めたけれど、
この暑さのせいでどこかへ溶けて消えてしまったようだった。
「ありがと」
ちょっと気恥ずかしくなって言ったはいいが一騎は俯いてしまう。
じゃあ、今から10分後な、と言って彼は足早に教室を去っていった。
ふ、と空気が少し動いてそこから風が起こる。
ここからは見えない廊下に真新しい革靴の音が木霊していく。
「たまには、いいかも」
いつしか周りに紛れて薄れてしまった幼なじみという近かったはずの距離をまた再確認するような感覚。
ちょっとむず痒いようなそれでいて微笑ましいような懐かしさがこみ上げて、
一騎は時計を確認すると鞄を持って教室を後にした。